DigItal-AnaLog(ue) —言葉にとって美とは何か

白石火乃絵

弥生―Virtual—四日


火乃絵はずっとことばというものに違和感を抱いてきた、

「ことばがなければもっと楽に生きられるのに…」

いつもことばがじゃまだった、むずがゆかった、きもちわるかった、

もんだいは文字にある気がする、—

がいこくに生まれていたらこうはならなかったかもしれない、

でも、ひのえが抱いてきたこの違和感を

なぜか共有してくれるひとは今日まで現われなかった。

だから、この論考は火乃絵いがいのたれにもできないし また

かわりにやってくれる人もいない、

これを書くということはたえず幼年の孤独に立ち還ることである、—



水無月三日


火乃絵はかつて空手を習っていた、小学校五年までの約七年くらいでその神髄が摑めるはずもなく、いまとなっては筋力も衰え、からだも固くなり、型(カタ)も教えも忘れてしまい、腹の底から〝押忍〟と声を出せるかもわからない。ただひとつのこっているのは、握りこぶしの感触のようなものだけである。

道具もなにも持たないこと、なにもというのが大切だ、主義も主張も、ということである。これは白紙を前にして、何かを書き始めようとするときの心持ちと同じである。裸足でつめたい畳の上に立つ、あの手のひらと足のうらとが一つになる感じ、—

いや、おまえはいまボールペンという文明の利器を手にしていて、ぜんぜん空手でないではないか、そういいたくなるのもむりはないが、そうではない。この世界に一つだけのZEEBRA SΛRΛSΛ CLIP・黒 は、いまや火乃絵の手になじみ、一体化していて、空手であるのにかわりない。いやいや、そうだとすればそのペンを鉄パイプにかえたとて、手になじんでさえいればそいつは空手ということになって、武道もへったくれもなくなってしまうではないか、—

それでいいのだ、ただ空手の達人が鉄パイプを握らないのは、その方が強いからにほかならない。空手のひとたちに直接きいたわけではないが、けっして否定されまいとおもう。

空手とはすなわち、手を空にするということ。これ、文章のきほんのきでもある。

そして、空手同様、何語であろうと文章には型があり、またしても空手同様、からだで覚えるしかなく、やはり空手同様、型に忠実であればあるほど美くしい、音楽がまたそうであるように。コセイなどという言葉(まやかし)ははやく忘れてしまったほうがいい。

—ならジユウはどこにある? 

どこにもない、ただ型があるだけであり、その中身はからっぽだ、

ようするに人には書くべきことなど何ひとつとてない。このことを悟らなければ、文章というものの本質を理解することはできない、—


むろんらじかりずむにはちがいない。しかしこの根底がわからなければ、官僚てきの文章もLINEのメッセージも文学作品も条文も十戒もキャッチコピイも便所のらくがきも、その本質が見失われることになる。いま火乃絵の書きつつある文章にしてもだ、

文章とはつねにあえて書かれるものである。


そもそもの初めとして、人は読めるようになるために書くということを覚えさせられる、—書くためではない。署名にしても、必ず内容を読んだうえで(あるいはその体(テイ)で、)その証明(あかし)として記されるように、まずは読むということが第一に来る、書くという行為はあくまでその副産物に過ぎない。

しかし、ひとはその文字を書くことができなければ(ないしは書けるという可能性をもたなければ)読むことができない、つまりその文字を書いた人間の手の感触がじぶんのもののように分からなければ読めないのだ。たといワープロで書かれた文字であるにせよ、キーを打ち込む人の無意識にはかならずやその文字を書く手の感触がさいげんされている。識らない漢字も、それを書く手のうごきのかんしょくを肌感覚で再現することで、なんとなく読むことができる。—

なら、さいしょに文字を書いた人間はどうなる? かれは読むものがなく、書くために書いたのではなかったか、

—これにたいする応えはかんたんで、さいしょに文字を書いたのは人間ではなく、人はそれを自然のなかに読んだにすぎないのだ。そして手(て)都可(づか)らそれを写し採ったとき、すなわち文明の利器としての文字のはじまりである。



水無月二日


デジタル(◎◎◎◎)とかアナログ(◎◎◎◎)とかいう言葉がある、みながなんとなく遣っているこのひかくてきあたらしいことばのいみをきかれると、なかなか応えづらい、感覚てきにはなんとなくいえるのだが…ようやく言葉にできそうになってきたところで、いまの世の中でこれほどまでに誤謬にさらされているコトバもないとおもいはじめた、

もちろん外国語の digital と analog というのではなく、カタカナの、にほん語として定着しつつあるデジタルとアナログのことである。

とはいえ英語としての digital と analog にしてもさして事情が異なるとはおもえない、この論考もその地平にまで達さなくてはならない。


かつてこの日本という国でもそうであったように、社会の文明段階として無文字社会があり、いまだそれを護っている集団もあるが、周囲との断絶を保ちつづけることに限界はあって、遅かれ早かれ無文字社会は、文字との出遇いを経験せずにはおかれない。

文字ナシの文明化というのはおよそ信じることができない、文明化とはすなわち声コトバの文字化、あるいは文字禍といっても過言ではないだろう、そのことについて語ろうとするとき、このニホンという国は恰好のモチーフとしてそんしょくない、つまりこの文章はにほん語をとおしての普遍言語ろん、いや言葉(ことのは)論になる。

そうなるべきだ、

—というのも、digital と analog の起源を索めるとすればあきらかにそれは人類の文字の使用にまで遡るからだ。そしてそれは人類のれきし、任意の文化をもつ社会のれきし、なにより文字社会にあって読み書きを習わされるわたしたち個人のれきしにおいて反復されるがゆえに、この文章もそれら三つの位相において語られねばならない。


読み書き、といったが、わたしたちが文字を習うのは、なにより読めるようになるためといっていい、そのためには書くことを覚える必要があるのだ、いっけん呪術の絵柄のようにしかみえない未知の文字も、それをなぞって書いていくことで、しだいに判読が可能になってくる、—これは語学の経験のあるものならたれもが一度は味わったことのあることだとおもう。

なぜ、文字を読めるようになることが幼少のわたしたちに課せられるのか。それは社会の構造がそうなっているからだ、そのような構造をもつ社会を文字社会とよぶ。—

つまり文字が読めなければ、不自由という段階をややとおり越して、生きてゆけないのが文字社会である。或はこれをいいかえて、情報社会といってもいい。ここでまず求められる能力をひとは識字能力(リテラシイ)とよんでいる。文字が読めなければ情報を得ることができず、情報が得られなければそれで致命的となる。いちど文字を得た社会が、ふたたび無文字社会へと逆戻りすることはできない。科学の進歩がまたそうであるように、—


かくしてわたしたちは望んでもいないのに、幼少期の早い段階から、文字を書けるようにしつけられる。病はそこからはじまる。


言葉としての美もまた、—